刹那の愛情


「いやー、おっかねぇおっかねぇ」
流石はあのおっそろしい旦那のご主人様だ。怒鳴られたわけでもない。殴られたわけでもない。それでも彼女は今まで出会った雇い主の中でもトップクラスの迫力を備えていた。
傭兵達の溜まり場になっている広間で、俺はバカでかい楕円のテーブルに浅く腰掛け、やれやれと肩の力を抜いた。

演習はもうとっくに始まっていて、むさい野郎共も嬢ちゃんもそっちに行っている筈だ。
で、隊長である俺はというと、ここで密かに傷ついた心を癒していると言う訳だ。
ジャケットのポケットを探ってチタン製のウィスキースキットルを取り出す。薄ぼんやりとした灯りを鈍く弾く容器を軽く振れば、水音がする。まだ少しは中身があるようだ。
キャップを開ければ、馴染みの安酒の匂いがする。飲み口を咥え、軽く容器を傾けたその時だった。

ふと、右目の(まぁ、どのみち右しか見えないんだけど)視界の端に、黒い点が見えたような気がして、そっちを向いた。何もない壁にポツンと現れた染みは、みるみるうちにその面積を広げて、そうしながら人の姿をかたどっていく。
最初にこれを見た時は固まったな。人間、驚きも過ぎると口開けて見てるしかねぇもんだなと後で思った。
今は大分慣れて、せいぜい背筋が引き攣る位だ。
「旦那ァ、そういう登場の仕方は止めて下さいよ。心臓に悪ィ」
肩を竦めて現れた吸血鬼を見る。これまたおっかねぇのの御成りだ。一難去ってまた一難とはこのことだね。俺、泣いてもいい?
「お前もヘルシングの犬になったのだから、この程度は早く慣れる事だ」
つまらなそうに言い放ち、吸血鬼は壁に背をもたれさせた。いっそあのまま、すかっと壁ン中すり抜けてひっくり返ったら面白ぇだろうな、なんて仕様もないことを考えてみる。
そんな風に現実から逃避してみた俺を、どういう訳か吸血鬼は黙ったままじっと見ている。何この旦那、もしかして人の考えも読めちゃったりなんかするのか。いや、まさかまさか。
しかし、当たり前のことをここの連中に求めても無駄だということを俺はとうに学習してしまっている。何が起こっても不思議じゃない魔窟だここは。
心中に冷や汗を垂らしながらも、平然を装ってもう一口、酒を含んだ。沈黙を守っていた吸血鬼がおもむろに口を開いたのは、それと同時だった。
「青い果実を、その手でもいだ感想はどうだ?」
青い果実。
その意味するところを悟った瞬間、酒を噴き出さなかった俺を誰か褒めてくれ。
ちらりと吸血鬼を見る。相変わらずの無表情で、サングラスの奥の瞳は見えやしないが、祝福ムードではないのは明らかだった。
酒と一緒に大量の唾を飲み込み、俺は何とか誤魔化して逃げる道を選んだ。
「へ? 何言ってるんすか? 俺は爺さんの遺言で、そこらに生ってる食いモンには手はださねぇことにしてるんで」
「つまらなん戯言を口にするな」
あっさりと退路を断たれ、俺は溜息をついて降参した。
「分かるもんなんですかい? そういうの?」
俺の問いに、吸血鬼はゆっくりとその口の端を持ち上げた。
「分かるさ。アレはこの私が吸血鬼にした女だ」
それは余裕を持つ者の笑い方だった。その笑みと、嬢ちゃんをまるで自分の物のように言い放つその言い草が妙に勘に触った。
「それで?」
再び表情を消した吸血鬼を見上げ、俺は笑った。どうしても目だけは笑えなかったが。
「その女を俺如きにかっさらわれて、恨み事でも言いにきたってか?」
吸血鬼はつまらなそうに、ふん、と鼻を鳴らした。
「アレはまだ何も分かっていない。永き時を渡るということを。咲き誇る花が瞬きの合間に塵と果ていく。その様を目の当たりにし続けることを」
成る程ね。
「俺みたいな人間がミディアン惚れたところで、アンタ等にとっては一瞬の夢ってことか」
「否。一瞬の夢にも満たぬ」
吸血鬼はサングラスを取った。試すような深紅の瞳は悠然と俺を見下ろしてくる。その目を見て、俺は言った。

「それがどうした」

俺はこんなだから、永遠なんてものは信用しない。
あの時の嬢ちゃんにとって、俺はただの藁に過ぎないのかもしれない。血の海の中で溺れかけてた嬢ちゃんが思わず掴んだ一本の。
けど、あの夜、俺は嬢ちゃんを欲しいと思い、嬢ちゃんは俺を受け入れた。
それが一夜限りのことだとしても、それで嬢ちゃんがまた前見て歩いていけるってんなら、それでいい。本音を言えば、少し、いやかなり惜しい気もするが。
俺の言葉に、吸血鬼は表情を消し、目を細めた。
もしかしたら、と俺は思う。
目の前のこの男は、永い時を歩むが故に求めずにはいられないのかも知れない。永遠に変わらぬものを。だとすりゃあ、アンタとんだロマンチストだよ、不死の王。
嬢ちゃんを吸血鬼にした男。
永い時を歩む供に、嬢ちゃんを選んだ男。この男は一体何を嬢ちゃんの中に見出したのだろう。

つーか。あれ?
何だかんだ言って、もしかして同じ穴の狢なんじゃねぇか。俺達二人。
そんなことを思った瞬間、俺の中に燻ってたむしゃくしゃししたもんが、すっと落ちた。
代わりに何とも言えない可笑しさがこみ上げてくる。
「人間にしかできねぇ愛ってのもあるでしょうや」
我ながら赤面モノの青臭い台詞は、一笑に付されて終わりかと思ってたが、予想に反し、吸血鬼は俺を見下ろしたまま押し黙っていた。 ややあってから、いつものように皮肉気に口元を歪めてみせたが、俺にはそれが苦笑のようにも見えた。
「では、見せてもらおう。人間の愛とやらが、どうアレを変えるのかを」
くつくつと笑いながら吸血鬼は影となり、やがて消えた。まるで最初から何もなかったかのように。

気づけば外は賑やかで。また野郎共を怒鳴りつけながら銃をぶっ放してるんだろう。あのお嬢さんは。

なぁ、嬢ちゃん。知ってっか?
馬鹿な男二人がアンタの取り合いしてたんだぜ?
アンタ大した女だよ。

声を出さずに笑った口に残りの酒を流し込んで、俺は席を立った。