I'll never kiss you.
ぼちぼち寝るかァ。
編んだ髪を留めていたゴムを外し、ベルナドットは左右に軽く頭を振った。長い髪がゆるゆると解け、ベルナドットの肩を覆う。
煙草を咥え、ベッドへ向かうベルナドットは、ふと窓の外に微かな異音を聞き取り、その足を止めた。
足音?
ごくごく小さなそれは、窓の下を遠ざかりしては戻り、また離れ、そして戻った。
侵入者にしては、躊躇うような足取りが妙だった。ベルナドットは眉根を寄せ、枕の下に手を潜らせる。
手の甲にあたる羽枕の柔らかな手触りとは対照的な、冷ややかで硬い感触。愛用のコルトSAAの残弾数を確認し、ベルナドットは窓際の壁に身を張り付かせた。
窓の下方にまだ存在する気配を確認し、窓枠の下に身を屈め、腕だけを伸ばしてそっと鍵を外した。
音をたてぬよう気を配りながら窓を開ける。僅かに開いたその隙間からベルナドットは一瞬で身を乗り出した。
「動くな!」
抑えた声で、ベルナドットは銃口を下に向けた。
眉間に押し当てられた銃口の下に、大きく見開かれた瞳がある。
「・・・・・嬢ちゃん!?」
同じように驚きに満ちた隻眼を見上げ、セラスは慌てたように両手をばたつかせ、それからきょろきょろと辺りを窺い、口元に人差し指を当ててみせた。
「どうしたっての? 嬢ちゃん」
窓からセラスを引き上げ、ベルナドットは尋ねた。部屋に備え付けのテーブルセット。ベルナドットは椅子に腰掛け、もう一つの椅子をセラスに勧めた。
セラスは俯いたままテーブルの木目を見つめている。
どうしたもんかね。
こんな時間に(と言っても吸血鬼にとってはまだまだ活動時間なのだろうが)人目を忍んでやってくるってことは、内々の話に違いない。
そしてベルナドットには、心当たりは一つしかなかった。
溺れるようにして身体を合わせた夜のこと。
セラスが次に目覚めた時には、既にヘルシングから迎えが来ていたこともあって、そのことについてはろくに話すことも出来ずに日が過ぎていた。
と言いますか。
ベルナドットは視線を天井に彷徨わせた。
何て言っていいか、よく分かんねぇんだよな。実は。
酒場の女でも、商売女でもない極々普通の娘さん。女吸血鬼だってことは、この際横に置いておく。
そんなまっとうで、しかも、俺が初めての男だっつうコに何て声をかけるべきだろう。よくよく考えれば、こんなことを悩むのは初めてだった。
ベルナドットは表情を変えぬまま、実は困惑していた。
「・・・・・あの」
俯いたまま、セラスがおずおずと口を開いた。それからややあって、意を決したように顔を上げる。
「ありがとう、ございました」
意外な言葉に目を眇めたベルナドットから、セラスは僅かに視線を外す。
「えぇと・・・・・その・・・・・あの日に、隊長が言ってくれたことで、とっても救われた気がするんです・・・・私」
自分を「欲しい」と言ってくれた男の顔をセラスは見つめる。
「だから・・・・ずっとお礼を言いたかったんです・・・・・・よかった。言えて」
そうしてセラスは、胸のつかえが取れたかのように笑った。
くそ。可愛いじゃねぇか。
晴れやかなその笑みに、思わず心惹かれ、ベルナドットは内心呻いた。そんな男の前でセラスは再び俯く。
「それで・・・・・ですね・・・・・こんなこと、何て言ったらいいか・・・よく分かんないんですけど・・・・・」
幾度も言い淀みながらそこまで言って、セラスは困ったように口を閉ざした。
ああ、そういう事か。
ベルナドットは俯いたままのセラスの前髪を見つめて、苦笑を浮かべた。
自分はもう大丈夫だから、こないだのことはなかった事に――てトコか。
それならこのまま知らん振りをしておけばいいものを、わざわざ礼を言った上で断りまで入れようとする。ベルナドットにとってはその生真面目さが可笑しかった。
それと同時に、心の奥に確かに存在する落胆にも似た感情には、敢えて蓋することにした。
嬢ちゃんは人がいいからな。
ベルナドットは口を開こうとした。セラスの心に負担をかけぬ為にも、ここは自分の方から忘れてくれと言うべきだと。セラスがようやく次の言葉を発したのは、ベルナドットの言葉が形になる前だった。
「今度は、窓の鍵・・・・・開けててもらえますか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・へ?」
瞬きを十回も繰り返した後、ようやくベルナドットの口から間の抜けた一音があがった。
「えぇと・・・今まで何回か隊長の部屋に行こうとしてたんだけど、意外に皆遅くまで起きてて、酔っぱらって廊下に寝てる人なんかもいてとても行けなくて。だったらいっそ今日は窓から入っちゃえとか思ったら、よく考えたら当たり前だけど鍵かかってて。壊して入ろうかとも思ったんだけど、音がしたら困るしで、うろうろしてたらベルナドットさんが開けてくれたんです。だから、今度から窓の鍵は、閉めないでいてくれると嬉しいな・・・って」
ポカンと自分を見つめるベルナドットを前に、セラスは一気に捲し立てる。それから、一息をついて、躊躇いがちにベルナドットを上目遣いで見上げた。
「・・・・・・ダメ?」
「いや・・・・ダメ、じゃない」
アレ? 俺、今何言った?
ダメじゃないじゃなくて。いやいや、ダメじゃないんだけど。まて。ちょっと待て。どういうことだ、こりゃ?
よかった、と安堵したように微笑む顔を愛らしく思いながら、ベルナドットは頭の中を嵐のように駆け抜けていったセラスの言葉を吟味する。
俺ァてっきり嬢ちゃんは別れ話(と言うのも微妙だが)をしに来たんだと思ったんだけど、そうじゃなくて、窓の鍵開けとけって? 今度来る時の為に? て言うか、今度・・・って。
そこまで考えてようやくベルナドットはセラスの言わんとしていることを諒解した。
「嬢ちゃん、アンタ・・・・・」
肩を揺らしながらベルナドットは、くつくつと笑い声を零した。
どうしてか笑えて仕方がなかった。嬉しさと照れくささが綯い交ぜになった、なんともくすぐったい感情。そんな上等なものがまだ自分の中に眠っていたことに驚きながら。
「私もマスターみたいに、壁からにゅって出てこれるといいんだけどなぁ」
いや。それはやめて。
残念そうな顔を見せたセラスに、ベルナドットは苦笑しながら片手を差し伸べる。
「来な?」
その言葉にセラスは素直に席を立ち、ベルナドットの前に立った。
椅子に腰掛けたまま、ベルナドットは脚を大きく開くと、その間にセラスを招く。少しバツの悪そうな顔のセラスに微笑を向けると、ベルナドットはその腕を引き寄せ、己の右腿の上に座らせた。
女になったとは言え、まだまだ幼さの残る顔を覗き込めば、セラスは恥ずかしげに顔を背けようとする。頤を掴んでそれを阻止すると、ベルナドットは心底楽しそうに口元を綻ばせた。
「てことは、これからは嬢ちゃん公認でこういうことし放題な訳だな?」
そう言えば、セラスにキスをするのはこれが初めてだということにベルナドットは思い当たる。あれほど身体を結んだ夜に、どうしてか一度も口づけを交わすことはなかった。
もしかしたら無意識のうちに制御していたのかも知れない。触れてはならない、と。この娘の心は手に入らないだろうと思っていたから。
全く甘いことだと思いながら、唇を重ねようとしたその時、セラスが小さく首を左右に振った。
「唇は・・・・ダメです」
「嬢ちゃん?」
怪訝そうな顔のベルナドットを、セラスは真摯な顔で見つめ返した。
「唇に触れられて、唇で触れてしまったら、もしかしたら、欲しいと思ってしまうかもしれない・・・・・ベルナドットさんの・・・血を」
そう言ってセラスは俯いた。
「やっぱり・・・怖いんです。だから」
「成る程ね」
思いつめた表情で上げた頭の上にベルナドットの手のひらがのせられた。
「てことは、嬢ちゃんにキスしたかったら、不意打ちしかねぇ訳か」
大きく、そして温かな手がセラスの頭をくしゃりと撫ぜた。
「いいぜ。気にすんな、嬢ちゃん」
笑い含みにそう言うと、ベルナドットはセラスの唇の際を指先でなぞる。
キス抜きセックスのみ、なんて関係も色っぽくてオツなもんだ。
「まァ、上の口は勘弁してやっから、下の口はたっぷり味わわせてくれな?」
「・・・・・下の口?」
「そ。下の」
キョトンと見つめてくる瞳に、ベルナドットは人の悪い笑みを向ける。
やがて目の前の顔が、みるみるうちに朱を帯びてくる。どうやらどこの話をしてたのかに気づいたようだ。
「バカ!」
むくれたようにセラスはそっぽを向く。ベルナドットは真赤に染まった耳に唇を寄せると、唇の代わりに、柔らかなその耳朶にそっと口付けた。
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