Moonlight Serenade

*前作『My fair lady』の続きです。


穏やかに打ち寄せる波の音が聞こえる。
海面に映る月が儚げな光の橋を架けていた。

季節外れの浜辺に吹く風は冷たい。
男がテイクアウトしたコーヒーのカップに口をつける。飲み口から立ち昇る湯気と、カップを持つのと同じ右手に挟んだ煙草から立ち上る煙は、すぐに風に千切られ闇に消えた。そのすぐ隣でスカートの裾がふわりと翻る。じっと海を見つめるセラスにベルナドットが目を向ける。
海が見たいと言ったのは彼女だった。


浜辺近くの岩陰に車を停め、波打ち際へと向かった。
砂浜、と言うには砂利の多い浜には、他に人気はなく、寄せては返す波だけがそこにあった。
「静かですねぇ」
黒い境界を描く水平線を見つめ、セラスが言う。
「オフシーズンだからな、流石に」
「そうですね」
小さく頷いてセラスは足元に視線を落とす。足元の間近にまで波はやってくる。一歩を踏み出せば、波の中に足は没する。だが、セラスはどうしてもその場から動くことはできなかった。
吸血鬼は流れる水を越えることはできないと聞いた。
海に触れるのが嫌な訳でも恐ろしい訳でもない。ただ、見えぬ壁に阻まれているかのように身体が進まない。

「夜の海ってのもオツなもんだな」
咥えていた煙草を指先で弾き飛ばし、ベルナドットは笑った。
「今度はちゃんとシーズン中に来ような」
向けられる笑顔に、セラスは困り顔で小さく笑う。
「けど、来ても私は海には入れないし」
そう言って瞳を伏せたセラスの耳に、何だそんなことか、と明るい声が届いた。
「構うこたァねぇよ。海になんか入んなくても」
セラスの顔を覗き込み、ベルナドットは含みのある眼差しを送る。
「俺ァ、嬢ちゃんの水着姿が見れればそんだけで」
くつくつと笑いながら、ベルナドットは腕を組んで舐めるような視線をセラスの全身に隈なく走らせる。
「白・・・・いやぁ、黒も捨てがたいか?」
「?」
首を傾げたセラス。
「まぁ、今度は目ぇ覚めるぐらい際どいビキニ買ってやるから楽しみにな」
「ベルナドットさん!!」
ベルナドットの軽口をセラスがさえぎれば、降参とでも言うようにベルナドットは両手を軽く挙げた。
次の瞬間、セラスはその表情を和らげる。切なくも見える微笑で、セラスはベルナドットの胸に額を預けた。
「・・・ありがとうございます」
立ち止まりそうになれば、そ知らぬ顔で背中を押してくれる。
当たり前のように話してくれる未来が、どれほど嬉しいか。
その存在にどれほど救われているか。
セラスの頭上で、クスリと笑む声が聞こえた。
「そうか、ビキニがそんなに嬉しかったか」
「またそんなこと言っ―――!?」

先に気づいたのは、やはり人ならざる女の方だった。
不穏な気配をベルナドットが察知した時にはもう、セラスは近づいてくる人影に目を向けていた。

ざり、と砂利を踏む音が複数。暗がりから現れた人影は最初から悪意に満ちていることが分かる。
年の頃は二十前後。スキンヘッドが二人にパンクが三人。強盗か強姦か。いずれろくでもない用事であることは明白だった。
「何だ? 迷子か?」
対するベルナドットはのんきな顔で調子外れの問いを投げかけた。
「この先にゃ海しかねぇぞ。寒中水泳だってんなら止めねぇけど」
怖気の欠片もない様子に一瞬、戸惑いの表情を見せた男達だが、セラスを目にするとその顔を一変させた。
「裸で海に沈むのはそっちだろ。金目のものァ、全部置いてきな」
別の男がセラスを眺めて品のない口笛を吹く。
「おねェちゃんには沈む前に、俺達の相手してもらうか」
下卑た笑い声が周囲に伝染する。一人が小馬鹿にするような目でベルナドット見る。
「そんなおっさんよりはいい仕事するぜぇ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おっさん」
いや確かに、連中に比べたら俺はおっさんだけどよ。
肩を落としながら爪先で砂を掘るベルナドットにセラスが脱力しながらも声をかける。
「・・・・・・こんな時に落ち込まないで下さい」
そうだった、と顔を上げたベルナドットは、がらりとその表情を変え、真剣な眼差しで男達に向き直る。
「一ついいことを教えといてやる」
そう言って、ひょい、と人差し指をセラスに向ける。
「お前らなんかがどうこうできるあいてじゃねぇぜ。このお嬢ちゃんは。何てったって――」
そして、内緒話を打ち明けるように声を潜める。
「吸血鬼だ」
「ち、ちょっとベルナドットさん――!!?」
目を丸くするセラスを前に、男達は揃って二度瞬きし、それから声を大にして笑い出した。
まぁね、そらそうだ。
少し前の自分も同じように馬鹿笑いしたっけ。
笑い転げる男達を眺めながら、ベルナドットは軽く肩を竦め、ジャケットのポケットを探る。
どうしたものかと困った顔で見上げてくるセラスに、ベルナドットは人の悪い笑みを向け、ポケットから取り出したものを目の前に差し出した。
二本の指の間には、1ポンド硬貨が挟められている。
ベルナドットは手にした硬貨をセラスの手にポトリと落とし、まるで悪餓鬼のような笑みを作る。
「了解。隊長」
小さく笑って応じると、セラスは親指と人差し指で硬貨を挟み、男達の前に掲げる。
「悪いが小銭にゃ用はねぇ。財布ごと置いてき・・・・・・・なァァァ!!?」
目の前で、まるで溶けた飴細工のようにくにゃりと折れ曲がった硬貨を見て、男は盛大に声を裏返した。
「な? おっかねぇだろ? いい子だからこうなる前に帰んな」
子供に言い含めるように諭すベルナドットを男が睨みつけた。
「んなもん、トリックがあるに決まってる!!」
あ、そう、とベルナドットはつまらなそうに応じ、溜息をついた。
「じゃあ、ま、それがトリックかどうかはさて置き」
するりとジャケットに忍ばせた右手を引き抜く。
「こいつにゃタネも仕掛けもねぇぞ」
その手に握られているのは月光に鈍く光るコルトSAA。
「試してみるか?」
にこやかな笑みと共に突きつけられた銃口に、男達は一斉にその動きを止めた。
「どうする? 坊主供」
男の瞳に先程まであった鷹揚な色は成りを潜め、代わりに、一つしかないそこはどこまでも冷ややかな光を放っている。
「ひっ!!」
か細い悲鳴が決壊の合図だった。
さっきまでの勢いはどこへやら、身を翻した男達は我先にとこの場から逃げ出そうとしている。
「ちょい待て」
ベルナドットが飛ばした鋭い声に、男達は背中を向けたままぴたりと足を止める。
銃口を空に向け、ベルナドットはつかつかと最後尾の男に近寄ると、その肩を抱くようにして腕を回した。
「これ、空なんだわ。捨てといてくれっか?」
バネの壊れた人形のようにガクガクと頷く男の手に、すっかりと冷えたカップを手渡し、ベルナドットはニヤと笑った。